「自分」ってなんだっけ?

久しぶりの「なんだっけ」シリーズ。このシリーズは未消化の小むつかしいことをぐちゃぐちゃ書いてあるので、読者の評判が悪いのよね。

嫌がられるとますます書きたくなる因果な性格・・・・・

というわけで、今回は「自分ってなんだっけ?」

一時、“自分探しの旅”とかの言い方が流行ったことがありましたっけねえ。あるいは“本当の自分”を探すとか・・・・
あの方たちは探して見つけることができたのでしょうかね。

忙しい日々に追いかけられていると、落ち着いていろいろなことを考えたいということはありますね。あまり物事を考えないでドンドン進んでいくと、どこかで落ち着いて考えてみたいという欲求が出てくるのですね。

周囲の状況をよく考えてみて、「うん、やっぱりこれでいいな」と自信がついて、次の作業にとりかかるということはあるかもしれませんが、自分を見つけたということではなさそうです。

本当の自分を探したい、知りたいということは、そういうことを考えているのはウソの自分ということですね。屁理屈みたいに聞こえるでしょうが。
ウソの自分が言っていることをそうだそうだ、それももっともだ、探しに行きましょうといって賛成している自分というものもいるわけです。これもウソの自分ということですね。

5秒前に「知りたい」といっていたウソの自分は5秒後には気が変わっているかもしれないので、自分というものは刻々変化しているのですね。
本当の自分なんているのでしょうか。ウソの自分が探しだした本当の自分というのは本当に本当の自分なのでしょうか。ややこしいねどうも。

別のお話ですが・・・・
カフカの「変身」でしたっけ、ある日おきたら虫になっていたというお話。
あんな感じで、ある日、あなたが起きるとだれもあなたのことが見えない、あるいは知らん振りしているのか。
アナタが一生懸命話しかけてもみんな聞こえないようです。姿も見えないようです。
「オイラはここにいるよー」と言ってみても、誰も気がつかない。
カガミを見ても自分は見えない、「あれ?あれ?」と考えているアナタがいる(とアナタが考えている)ということになりますと、何日もたってくると、「おれはここにいるのだろうか」「おれは本当にいるのだろうか」「ひょっとして元々何もいないのでは?」
ということになりそうですね。

にらみつけられようが、どなりつけられようが、相手が自分のことを認識してくれているから、かろうじて自分が存在しているのでしょうか。
そうだとすると、自分というものの存在は非常にこころ細いものですね。

こういうはかない存在でありながら、それでも生きていくということは大変なことなんですね。
GGのように、「その日その日が楽しければ別にいいんだもんね。自分なんていてもいなくても関係ないもんね、フンフン」と暮らしている人間もいますが、その心細さに気がついた人はたぶん大変でしょうね。

フランスのおっちゃんでしたかね、「われ思う、ゆえに我あり」なんて、強引に言っちゃったのも海の向こうにはいたみたいだけどね。

お釈迦様もそんなひとりだったのでしょうね。
四苦八苦なんてね、人間は苦しいことだらけだ。なのに、何のために生まれてきて、何のために生きているんだろうと考え続けたようですね。

この苦しさから逃れるいい方法はないのもかと考え続けた結果、「ない」と結論づけたみたいですね。。
生・老・病・死という四苦から逃れる方法はないと。

別に好きで生まれたわけではないし、好きで老いているわけではないし、好きで病気になっているわけではないのに、それに耐えて生きてゆくということ自体が苦しみなんですな。
この基本の四苦だけでも苦しいのに、追加といいますか、おかわりの四苦(愛する人と別れる苦しみ、えーとあと3つはなんだっけかな忘れちゃったね)を合わせて四苦八苦。

その苦しさを受け入れつつ生きていくしかないのだよというのがお釈迦さんの教えの根本らしいです。
あの世というものがあって、そこへいくと楽になるなんてことは、お釈迦さま自身は言っておられないということを、曹洞宗のお坊さんが言っておられます。

輪廻転生とか、あの世とかはヒンドゥーとかインドのウパニシャド哲学とかの影響を受けた後世のひとが言い出したことらしいですね。それらをひっくるめて仏教ということかも知れませんが、少なくともお釈迦様は言ってないということらしいっすよどうも。

老・病・死からなんとか逃れたい、逃れるものなら逃れたいというところから、苦しみが始まるのですよ。死ぬときがきたら死ぬのだから、そんなこと気にしないで、うまく生きていきましょうよ。
というのがお釈迦さんの教えらしいのですな。
画像


ホントかウソかわかりませんが・・・・・
すくなくともGGには受け入れやすい。

この記事へのコメント