俳諧老人

ウジウジウダウダと言ってきておりますが、何とかね、俳句の良さというか、何が面白いのか知りたいのですね。ということは、いまのところ、面白いとは思えないと、いうことでありますね。

しかし、アレだけの俳句人口がいるということは、何かあるのに違いない、そこをわかりたい、少なくとも、わかるまでは見よう見まねでやってみるかということで、いろいろジタバタしておるのですがね。

もともと連歌というのがありまして、五七五と七七を交互に何人かのメンバーでつなぎ合わせてゆく遊びなのですね。

まず主賓が最初の五七五を作る。これを発句というのであります。
それを受けて迎える主人が七七の脇句を作る。
その後、集まったメンバーが順次、五七五と七七を交互に作句してゆくわけですね。
最後に、ではそろそろということで、最後の七七を作って終わる。この最後の七七を挙句(あげく)というのでありますが、「挙句の果てに」なんて言い方はここから出ているのですな。

連歌というのは、大勢でひとつの作品を仕上げるので、自分の思い通りに行かないし、いろいろな故事来歴とか、本歌取り、歌枕など、教養がないと付き合えないということで、かなりな暇人というか、教養階層の遊びな訳です。

そういった肩のこる連歌とちがって、もっと日常生活のこととか、面白いことを歌っていこうと庶民の間にひろまったのが、「俳諧」ということのようです。
俳諧の俳という字は、二人が向かい合って、おかしなことを言ったり、道化たりする意味の漢字で、諧も諧謔というくらいで、冗談とか、おふざけの意味があるのですね。

その俳諧連歌の中であっても、主賓の出す、発句というのは大事で、まずは挨拶代わりの句なわけです。
「いよいよ梅雨ですな、じめじめした気分を俳諧で吹き飛ばしましょうよ」というようなことを、主賓が五七五でまず言う。
それを受けて、場を設定した、亭主のほうが「梅雨といえば、そろそろ梅の実も大きくなってきて、梅酒を造る季節でんな」とかなんとか、七七でつないでゆくと、
第三句から一般の参加者が「夏の暑いときに冷やした梅酒を飲んだらたまりませんんな」と五七五、「梅酒もいいけど、灘の酒もよろしいで」を七七と順次つないでいくのであります。(やったことはないですけどね)。

おいしい料理を食べながら、仲間で俳諧連歌を作るのも楽しいのですが、出来た作品は共同作業なわけですな。
自分では、あそこが気に食わないと思っても、文句も言えないし訂正もできないわけですね。
何とか自分だけの意思で、自分だけの作品を作りたいと思ったひともいるのでしょうね。
そんな一連の流れの、最初の発句の五七五だけを独立させて、ひとりで作品を完成させることになったのが、俳句というのであります。

何をいいたいかといいますと・・・・
もともとが発句だから、やっぱり挨拶ばせんといけん。そんためには季語ば入れんといかんとですもんね。
十七音の中に、季語をいれたら、後は自分の主観なんかはいれる余地はなかとですもんね。
だから、写生に徹すべしと、余計なことは言うなと、子規も虚子も言っておるとですもんね。
(へえ、俳句ってのは自分の主観をいれたらあかんのか。)

季語をいれないといけないと強制されると、ルールがうるさいと思うのですが、逆に考えると、何もない、白紙の状態から400字詰め原稿用紙5枚に書けといわれても大変で、どこからとっかかって行こうか悩みますが、まず季語をいれてしまえば、17-5(として)=12文字くらいを考えればいいと。
しかもその12文字も自分の主観を述べたらいかんというのですから、あくまでも見たまま。

簡単だと思うのですけどねぇ。

簡単なだけに、いいたいことをズバッと切り付けなければいけない。
そこが俳句は男の遊びだといわれていた所以なのでありますね。
和歌は言いたいことを綿々とつづりますが、俳句はバサッと切ってしまうところにそのよさがあるのだそうです。
俳句は明治になるまでは男中心の世界だったのですね。

高浜虚子が、明治から大正にかけて、「女性も俳句を」ということで普及にかなり力を注いだらしいのです。
もっとも1700年前半に、加賀の千代女(例の朝顔に釣瓶をとられたひと)などの女流俳諧師もいたのですけどね。
虚子以降、女権の拡張とともに女性の作家が急に増えたようです。

最初の頃は女性解放運動のような俳句も多かったようですが・・・・・・

  足袋つぐや ノラともならず 教師妻  (杉田久女)
  
東京高等師範を卒業した杉田は芸術家の夫と結婚したが、芸術活動も行わず、田舎教師に満足していた夫に
物足りないものを感じていたようです。
ノラというのは、イプセンの「人形の家」の主人公ですね。自分を求めて、婚家を出たノラ。
当時の最高の学歴を持ちながら、足袋のつくろいなどをしつつ、ノラともなれずと悩んでいるところがね、哀切を感じるね。


  短夜や 乳ぜり泣く子を 須可捨焉乎  (竹下しづ女)

夏のただでさえ短夜(みじかよ)に、夜泣きをする子供、なだめている間に、また夜が明けてしまう。
いっそのこと捨ててしまおうか。

竹下は漢文の素養があり、この須可捨焉乎は「すべからく捨つるべけんや」と
読み下すのかと思いますが、句では須可捨焉乎(すてっちまおか)とルビをふってあります。
捨ててしまおうかと思いつつも、漢文で表現しているところに、冷静でな客観的な感覚を感じますね。
現代では、ヒステリー起こして本当に捨てる親もいるでしょうけど。


現代でも、時実新子さんなどは凄みのある句をつくっていますね。
時実さんは、川柳作家ということになっていますが。

  男の望むとおりに生きて 死にますか

とか、
  れんげ菜の花 この世の旅も あと少し

などがあります。
そういえば「有夫恋」というすごい句集もありましたね。


俳句もね、簡単といえば簡単、難しいといえば難しいね。
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「うーん 難しいのぉ」
なんて言いながら、GGさん、アンタ、寝てんじゃないの?
寝てないで作りなさいよ。俳句は実作が全てですってさ。




   

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