やりたくないよー

「やりたくないよー」と言いましてもね、やりたくないことをどうやればいいのかというややこしいことがありますね。


福生病院で、「透析をやりたくないよー」といってた女性が、いよいよ外すという段階になって、「やっぱりやめるのをやめようかなぁ」なんて言ったとか、言わなかったとかで、あれこれ担当医が言われておりますね。

意識と知力がはっきりしていた段階で、「透析はやりたくない」と言っていたとかで、医者はそれを優先したらしいのだけど、だんだんと弱ってきて、判断も決断も曖昧になってきて、「やっぱりやってもらおうかなぁ」と言ったらしいのですね。ま、難しい問題だわね。
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オイラはね、自分の人生を終えるにあたって、「こうありたい」と思うようなことを、意思がはっきりしている段階で、書き残しておきたいと思っておりますけれども・・・・
家族・医師に対して書き残すというよりも(それももちろんありますが)、元気なころの自分の意見を尊重したいと思うのです。
いまは偉そうなことを言っていても、「もうこれで終るのよ、本当よ。透析するともうちょっとダラダラといけるかもしれないけどね」なんて言われると、体力・気力が弱っていると、何をいいだすか知れたものじゃないからね。

その時に、自分で自分を叱咤激励するためにも、書き残しておきたいと、こういうわけですのじゃ。

問題は、なにをどう書けばいいのか、わからんということですな。

「胃ろうカテーテルはやりたくない」というのははっきりしております。自分で食べることもできなくなったら、そこで終わりということですね。栄養剤を直接、胃にいれるようなことをしてまで生きたくないですね。
よほどやり残したことがあり、あと半年生きていたいとか、あれば別だけどね。

「呼吸装置」も嫌だね。自分で呼吸できないということは、昔だったらすでに死んでいるということだからね。いさぎよく死んでしまいましょう。

「人口透析」もね、テレビで透析の患者さんが10ベッドほど並べられて、透析を受けている図ってのは、なんだか工場みたいだったね。
もちろん、透析さえ受けていれば社会生活を営めるという人は透析をうければいいと思うますよ。問題は、高齢者で透析を受け始めると一気にボケるということなんですね。
ボケてしまえば、いま自分が何をされているかもわからず、突然透析のチューブを引きちぎったり、するらしいからね。

少なくとも70年以上生きてきた人生の終わりにあたって、そういう情けない終わり方は、オイラとしては望まないなぁ。

「胃ろうはいや」「人口呼吸もいや」「透析もいや」と書いておけばそれで済むかというと、違うんだろうね。

たとえば、風呂で倒れたとする。
家人は「普段からあっさりと死にたがっていたから、このままにしておいてやろう。」となるかというと、やっぱりとりあえず救急車を呼ぶことになるんだろうね。(え、呼ばない?)

救急車で、救急病院に連れていかれると、もう自分の意思ではどうもならないやね。
意識がはっきりしていれば別だけど、朦朧としていたら、呼吸装置をつけられ、気が付いたらスターウォーズのダズベイダーみたいに「スーハースーハー」なっていると・・・・・・
おまけに透析のチューブまでつけられ・・・・

窮屈だから、外してほしいといっても「え、いいんですか?はずしたら、死んでしまいますよ」なんて言われると、論理的に考えられなくなってるから、もうどうなるかわかんないよね。

なにか、一覧表みたいなものがあって、それに〇×△を付けていくというようなものはないのだろうか。
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ま、いろんなケースを考えすぎて、結局なにもしておかないよりは、この「やりたくない3点セット」だけでも書いておくということかなぁ。

先日テレビで、漫画家の内田春菊さんが「私は、人工肛門です。ここにこういう穴が開いていて、こういう袋を貼り付けます。なれるとなんてことないですよ。ときどきポコポコと音が鳴るときがありますけどね」なんて説明していましたね。

考えてみれば、胃ろうカテーテルから食べ物入れて、人工肛門から排泄しているとある意味では楽といえば楽かもしれないね。
下痢をしても、袋のなかに出るだけで、冷や汗かいて、トイレを探す必要もなさそうだし・・・・・
直接栄養を胃にいれると、「きょうは何をつくろうかなぁ」とか考える必要もなくなるしね。

寝たきりになって、ウンコが出たおむつもなかなか替えてもらえないし・・・なんてことになるよりもいいかもね。


西行法師は

「願わくば 花のもとにて 春死なむ
          その如月の 望月のころ」

なんて歌を残しているけどね。

できれば、2月15日の満月の頃に、桜の下で死にたいものだねなんて歌っていたけど、

驚いたことに、陰暦2月15日、太陽暦だと3月末の頃の満月の日に、南河内の弘川寺の桜の花の下で本当に死んじゃったんだらしいのね。
オイラも桜の花は好きだからこうありたいものだね。

どうも秋口から、五穀断ち、十穀断ちなどをして、じょじょに体力を落としていったのではないかと言われております。オイラの場合はそれができればこんなに太っていないけどね。それが問題。

オイラの家の近くに「ポックリ弁天」なんてありますがね、ま、こんな他力本願で「ぴんぴんころり」を願っているようじゃぁ心もとないね。
やっぱり西行方式がいいかな。人生の最後だから、最後方式か・・・・

徐々に食を絞っていってね。その状態をこのブログで報告しつつ・・・・
最後には「それでは皆様、さ・よ・う・な・らー」なんてかしまし娘みたいに歌いながら息絶えると。

もっともこの西行方式を真似た作家がいましてね。その状態を本に書いているのを買ったことがあります。
本を書いているくらいだから、もちろん失敗したのですがね。

確か木谷恭介とかいったかなぁ・・・新書版で「死にたい老人」とかいう題名だったような気が・・・・

40日近くまで断食したらしいけど、胃にものがはいっていないから、胃酸で胃がやられて胃潰瘍となり血を吐いて、救急車を自分で呼んだらしい。

独り身だったけど、お手伝いさんはいたから、その人にはやめてもらって(知っていて黙ってみていると自殺ほう助罪にならからね)、ひとり暮らしだったらしいけどね。

35日くらいを過ぎると、体力も知力もなくなって、ぼーとなるらしいけどね。
知力はなくなるけど、救急車を呼ぶだけの知力と体力はあったみたいだね。

しかし、死ぬつもりで、五穀断ち、断食をやっているのに、救急車をよんじゃうなんてね。
おもしろいね。

人間て、そういうものなんだね。理屈では割り切れないところがね、人間なんだね。

     

この記事へのコメント

sazae3
2019年03月18日 19:03
数年前より妹の病状を通して考えてきたテーマです。

自分としての結論なんて何も出ていません。きわどい状況を見てきたためにいまだに夜眠れなかった時など思い出してとりとめもない考えに至ってしまいます。

最後は自分では何も選べないのが納得いきませんね。
でも家族の考えが優先されてしまいそれも仕方がないことかなとも思うし、いろいろな体験を通しても迷う事ばかりです。

まあ今できることをやっておくことしかないかな・・・身の回りの整理をする断捨離です。

健康面は何が起きるか分かりません、どうすることも出来ません。

「それでは皆様・さ・よ・う・な・らー」と逝けたら理想ですね。
2019年03月19日 13:33
生まれるときもひとり、死ぬ時もひとりですからね。
死ぬ前に一回練習してというわけにも行きませんし・・・
子供・孫・ひ孫が何人いても、お金がどれだけあろうとも、死ぬときは一人で旅立つしかないですからね。自分のこととなると難しい問題です。