国友鉄砲の里(琵琶湖サイクリング )

一度、見てみたいと思っておりました国友町。先日の琵琶湖サイクリングで立ち寄りました。
長浜から自転車で20分くらいですね。

ご存じのように、国友村が鉄砲を供給したから信長の天下統一が成ったといってもいいくらいの村だったのですけどね。
信長からどれだけの恩賞をもらったのかどうかわかりませんが・・・・

国友の町の中にはいたるところに鉄砲鍛冶とか、台師などの屋敷跡があります。
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国友鉄砲の里資料館というのもあります。入場料300円と安い。
写真撮影も、業務に使わないのならいいですよどうぞとお許しいただきました。

日本の鉄砲の技術は種子島から紀州根来に伝わったルートと、いきなり国友に製品を持ち込まれて、国友が見よう見まねで独自に開発したルートがあるのですね。

国友から全国のあちこちに技術伝播したらしい。
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大筒の数々・・・・
一番向こうのが五十匁玉、手前のが、百匁玉用。大きさは逆に見えますけどね。
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百匁玉というのは、一番左の玉。直径4mmです。
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鉄砲台座の工程
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実物がおいてありまして(火皿などは外してあります)、持ち上げてみますと
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結構重いです。片手で持っていると手がブルブルと震えてきます。
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江戸時代も平和が続き、鉄砲の基幹技術が行きつくと、細かな細工に走ります。
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1800年頃になると鉄砲の需要も減り、技術を生かした製品開発が始まります。

国友一貫斉という人は、反射型天体望遠鏡まで作ります。
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それで観察した、太陽黒点と、月面図。
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ねずみ短檠と言われるもの。油皿に油が自動供給されます。
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玉燈と呼ばれる照明装置
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2004年の火縄銃大会での優勝者の的です。50mの距離で、15分間で7発撃った結果。
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なかなか良く的中しているというべきですね。


それにしても国友村というのは田んぼの真ん中にあるような村(今は長浜市国友町)なんですけどね。
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こんなところで、当時の最先端の鉄砲が開発されたというのは面白いですね。

1943年に種子島にポルトガル人が鉄砲を持ち込んだのですが、その後・・・・
その後。わずか1年後に国友で最初の国産2挺が完成したということのようです。
別に作り方を教えてもらったわけではないのですけどね。

種子島の領主は、薩摩の島津義久に1挺贈ったのが、京都の将軍足利義晴に差し出され、将軍から細川晴元に「どこかの鍛冶に作れるやつはおらんかの」と渡されて、晴元から北近江の守護職京極氏に「ちょっとどこかにやらしてみてよ」といったのが、種子島から半年後。

国友では村の全員が集まってわずか半年で完成させたということらしいです。

問題は、銃の後尾の尾栓だったらしいのです。

当時は日本には「ネジ」という考え方も、物もなく、どうやって銃の後をふさいであるのかわからない。

種子島の鍛冶は自分の娘をポルトガル人に差し出して、ネジというものと作り方も教えてもらって、その技術が紀州の根来衆に伝わったようですが、国友の場合は、いきなり実物が1挺きただけ。

いろいろいじっている間に、どうもねじると尾栓がはずれるということがわかってきたが、そのネジをどうやって作っていいかがわからない。

次郎助という若い鍛冶が刃の欠けた包丁で大根をくりぬいていて、ネジの切り方がわかったと伝わっています。

それにしても実物入手から半年というのはすごい技術があったということですね。

国友の鉄砲は鍛造技術が特に優れていて、他の鉄砲よりも丈夫で信頼できたということですが、それでも作らせた足利幕府から注文がこない。
鉄砲のすごさがわかっていなかったのですね。

そこに織田信長が気がついて、大量発注して、技術も進歩し、量産技術も発達したということのようです。

このへんは司馬遼太郎さんの本の受け売りですけどね。

ま、とにかくそのへんの知識はあったのですが、国友の村と周りの景色を見て、実感として、そのすごさと歴史の偶然といいますか面白さ、そういうものを感じることができた・・・・と。
旅の面白さですね。

それにしても日本の技術というのはすごかったですね。
当然、明にはもっと早く伝わっていたのですけどね。鋳造技術は発達していたが、鍛造技術がなかったということで丈夫な銃筒が作れなかったということですかね。



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